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だいたいシュプレヒコールなしで自分たちの主張や怒りの感情をどうやって表現する?
自分たちの主張や怒りの表現としてのシュプレヒコールを手放すな!
主張や怒りの表現としてのシュプレヒコールを禁止する『運動』なんてゴメンだ!
■付記
しかし、『運動』を主導する人たちは、これまでの「運動」をどのように「総括」しているのだろうか??? シュプレヒコールをあげることが「運動」を後退させてきたとでも考えているのだろうか??? あるいはシュプレヒコールをあげることで一般の人たちが「運動」に参加しなくなるとでも考えているのだろうか??? そうではないだろう。一般の人たちが「運動」に参加しないのは、「運動」が一般の人たちにとって閉ざされているから、一般の人たちの生活実感から遠いところで行なわれているからではないだろうか?
人々が「運動」に参加するのは、現状に対する不満や批判、怒りがあるからだ。逆に言えば、現状に対する不満や批判、怒りの表現としてのシュプレヒコールを嫌がる人たちは、そもそも現状に対する不満や批判、怒りが無いのではないか? 現状に対する不満や批判、怒りが無い人たちを「運動」に参加させようとすることそのものに無理があるし、仮に参加したとしても、続く訳がない。新しい、しかし現状に対する不満や批判、怒りの無い人間を「運動」に入れようとして、デモなどでシュプレヒコールを禁止するならば、現状に対する不満や批判、根源的な怒りを持っている人たちは「運動」から離れて行くだろうし、またそうではない人たちも「運動」を続ける訳がないとしたら、「運動」は後退するだけだろう。
また新自由主義のグローバリゼーションにより「派遣切り」などが行なわれ、経済的な格差、そして貧困が拡大している現在、むしろ一般の人たちの中にこそ現状に対する批判や不満、根源的な怒りが渦巻いているのではないだろうか? 的確な主張をシュプレヒコールし、表現することでこそ、現状に対する批判や不満、根源的な怒りを持つ人たちを「運動」に参加させることが出来るのではないか? またそうすべきではないのか?
■付記2
1996〜7年頃だったと思うが、アメリカの未臨界核実験に反対して「核廃絶紅天狗」などが行なった渋谷でのデモは、主催者側はシュプレヒコールをあげなかったが、参加者は自由にシュプレヒコールをあげていた。ある主催者は、「自分はシュプレヒコールをあげない主義だけれども、シュプレヒコールをあげたい人の邪魔はしない」と言っていた。これこそが多様な参加者がいること、多様さを認め合う「運動」ではないだろうか?
とみた君が何か突っ込んでいますが、真面目に書いてみました。
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