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> No.5823[元記事へ]
加筆しただすか。
> 1996〜7年頃だったと思うが、アメリカの未臨界核実験に反対して「核廃絶紅天
> 狗」などが行なった渋谷でのデモは、主催者側はシュプレヒコールをあげなかったが、
> 参加者は自由にシュプレヒコールをあげていた。ある主催者は、「自分はシュプレヒ
> コールをあげない主義だけれども、シュプレヒコールをあげたい人の邪魔はしない」と
> 言っていた。これこそが多様な参加者がいること、多様さを認め合う「運動」ではない
> だろうか?
そうそう、なつかしいねえ。
彼は95年のフランス、中国のCTBT前の駆け込み核実験のときからそうだったよ。彼の場合は「一緒に唱和することに違和感がある」っていってたよ。それも認めないとね。サウンドデモではいろんな表現形態が出きるからいいわけだ。
茶畑君へのレスとして、日本のシュプレヒコール特有なものとして、日本語はリズムに乗りにくいっていうのがある。まるで過去のはっぴいえんどあたりの日本語ロック論争に通じるものがあった。日本のポップミュージックの変遷もあるが、2001年くらいかわはリズムにのるようなコールも出てきている。逆に年輩者はそれをなかなかやることができないというのもある。
さまざまな諸条件で古くさく感じてしまうというのもある。一般的なコールであっても気合いが入ってるかどうかでも違う。場所によっても、主体が誰であるかによっても、イメージはかわる。主観的な意味合いが強い議論(?)だったんだよ。あれって。
だからWPNがひと段落ついたあと、WPN実行委の「古い」という言い分に対し、「ああ、オレもそう思うよ」と、あえて国会周辺の平日昼の労組の行動をあげたら、「うーん」という反応だったw
ホントはそれらの行動をあげて「ダメ」と断じるつもりはなかった。ただ「旧い」運動、「新しい」運動と規定し、わけるような主観主義的な言い分をつついてみただけ。
ただシュプレヒコールが旧来の運動へのアレルギーとして象徴的なものとして映っているのは、それはそれで理解はできる。垣根になってるのだろう。けれど、それを年輩者があーだこーだ押し付けることはなかろうというのが言いたいのよ。
同じくスタイルにしても「赤色古典芸能」はそれはそれとして、TPOはあるわけで、そりゃ考えなければならないだろう。
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